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もりみちブログ

2020年3月27日

腰折山のイヨスミレ

3/26.腰折山のエヒメアヤメは3ヶ所でしか確認できなかった。時期が遅かったようだ。イヨスミレは2株のみだが,麓の鎌大師堂には多数の株が植えられていてまだ花盛りだった。
イヨスミレについてネット情報では年数や現地の状況について異説が見られたので以下に過去の経緯を示すことにした。
イヨスミレは1898年(明治31年)に当時の松山中学校に勤務していた梅村甚太郎氏が腰折山で採取した標本に基づいて,牧野富太郎が1902年に発行された植物学雑誌16巻184号にて,イヨスミレViola Umemurae Makinoとして新種記載したものだ。新種記載には梅村が1898年に腰折山で採取した標本が採用されている。
その後,イヨスミレは現地では確認できなくなり幻のスミレといわれていたようだ(山本四郎1977,愛媛の植物記)。1950年(昭和25年)以前の状況について,当時,松山南高等学校に勤務していた湯山勇は,「梅村氏が腰折山で発見したという以外に詳細が知られなかった・・・本種は五十数年前に梅村氏の採集以外何人も採集したことがないものではないだろうかとの疑問が生じたきた。そこで本種を採集すべく数回腰折山を調査したが今日までそれらしい種類を見つけることが出来ない」と記している(湯山勇1950,イヨスミレについて(謄写版印刷))。
ところが湯山氏によって1952年(昭和27年)に腰折山でイヨスミレの大群落が発見され,その後同氏が標本を再確認したところ1949年(昭和24年)にも腰折山で採集しているこをが分かった(湯山1985,植物雑記帳)。
しかしその後,イヨスミレは再び確認されなくなったようだ。山本(1977)には「イヨスミレを現地で確認したく幾回か腰折山を探しついに数年前にその宿願を果たした」とは記載していることから,当時(昭和52年以前)には個体数が極めて少なくなっていたと思われる。
1980年(昭和55年)2月16日に腰折山一帯は山火事が発生し約4万㎡が消失している(北条合併記念号2004)。北条市教育委員会(当時)が設置した解説板では「昭和56年山火事にあい,焼け跡から翌年再びイヨスミレを湯山勇夫妻が再発見されたのである」と記されていたが,当時の自生地はアカマツ林でありススキやネザサに被圧されたため個体数が減少していたイヨスミレが山火事によって増加したのであろう。その際はエヒメアヤメも現在の自生地の道路を隔てた西側斜面でも群生が見られたという(2017/4/1,地元の人からの聞き取り)。山火事跡は地元の人によって定期的な草刈りによって日当たりの良い状態が維持されている。
現在,イヨスミレの自生株は極めて少ないが腰折山のエヒメアヤメ自生地付近で現存しており,麓の鎌大師堂や民家では栽培された株が多数見られる。2020/3/27,hmatsui

エヒメアヤメ

イヨスミレ

山火事,3ヶ月後。1980/5/4撮影。

山火事,3ヶ月後。1980/5/4撮影。

現在。2020/3/26


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