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もりみちブログ

2019年3月15日

木製電柱

ある夜、恭一少年が鉄道線路の横を歩いていると、突然、線路沿いの何千本もの電柱が一斉に兵士に変わり「ドッテテ、ドッテテ」というリズミカルな歌とともに、北へ向かって行進を始めた。これは宮沢賢治が大正10年に書いた童話「月夜のでんしんばしら」の冒頭のあらすじである。
明治⒛年に東京電灯が家庭配電を開始し、半世紀後の昭和初期には全国の電灯普及率は約90%に達している。童話の書かれた大正10年といえば、日本各地で電力供給網がすさまじい勢いで拡大しつつある頃である。道路に沿ってドミノ並べのように伸びていく電柱の列は、まさに庶民に近代文明の到達を告げるものであったであろう。家庭用電気使用は白熱灯から始まりやがて真空管ラジオが普及し、戦後になると電気炊飯器が、昭和30年代には白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫のいわゆる家電三種の神器が普及し始めた。
昭和30年代までの電柱は木製丸太であった。材には防腐剤としてクレオソートが高圧注入されていて全体が黒茶色であり、古くなるとクレオソートが塊状に浮き出ている部分もあった。電柱には登り下りの足場としてL字形金具が打ち付けられ、上部にはトランス(変圧器)が重そうに載っていた。
昭和30年代以降、耐久性・耐火性に優れたコンクリート製や鋼管製の電柱が採用されるようになり、木製電柱を立てなくなって久しい。木製電柱は年配の人にとって、少年少女時代を過ごした昭和40年代以前の原風景の構成要素の一つなのだ。
今、平成の時代も終わろうとしている。昭和レトロの遺物とも言える木製電柱がどれほど現存しているかと、各地に行くたびに意識して探して見た。すると意外にも多くの木製電柱が現役として残存していることに気づいた。郊外よりも古い町並みの路地にぽつんと残っている場合が多い。そして木製電柱のある通りには時間がとまっていたかのように昭和の面影が色濃く残っていた。
木製電柱を探していたら意外なところでも目にすることが出来た。撤去された木製電柱は比較的安価でしかも強力な防腐処理がされているため,標識やガーデニング、水路の丸太橋などとして再使用されていたのだ。ただそれが木製電柱だったと気づく人は少ないだろう。2019/3/15,hmatsui
※送電線が架かっているものを「電力柱」、電話回線などが架かっているものを「電信柱」というが、本稿では合せて電柱と表現した。
※文化愛媛82号(発行2019/3/11)に投稿したものである。

昭和39年に設置された木製電柱(松山市八反地)

古い路地に残っていた(今治市菊間町)

撤去された電柱(松山市日浦)

再利用された木製電柱(西条市河原津)


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