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もりみちブログ

2019年2月9日

二宮金次郎が背負っていたもの

伊方町 旧松小学校跡

砥部町 旧高市小学校

毎年、生き物観察会のため数校の小学校を訪れている。その校庭で「二宮金次郎像」を見つけると嬉しくなる。ほとんどの小学校は近代的な鉄筋コンクリートで新築されているが、金次郎像だけは木造校舎が似合う前時代的な雰囲気を残しているからだ。ある意味、場違いな感じさえする。
 二宮金次郎は幕末に小田原藩(神奈川県)の貧しい農民の息子に生まれた。十四歳で父を亡くしたのちは、朝早くから柴を集めて町で売り、昼は田畑を耕し、夜はわらじを編んで家計を支えた。彼は四六時中、いかに貧困から脱却して二宮家を再興することを考え、そのために寸暇を惜しんで多くの書物を読んだという。その後、一六歳で母を亡くし叔父に預けられるが、弱冠、二〇歳で独立し実家を復興した。この手腕が知られると、財政が困窮した武家の立て直しに抜擢され、ついには小田原藩の多数の村々の財政再建に尽力したと伝えられている。
 やがて彼は「尋常小学校修身」の教科書に、親孝行、勤勉、勉学、節約などの徳目を代表する人物として掲載され、小学唱歌も作られた。しかし全国に銅像が設置されたのは昭和の初期からである。当時、満州事変が勃発しており、戦時体制のなかで勤勉や節約を促進する象徴として国策に利用されたようである。
 しかし私が二宮金次郎像に注目しているのは、彼が柴を背負っているからである。
昭和三〇年代以降、一般の家庭で、LPガス、電気、石油の燃料が急速に使われるようになり、それまで使われていた薪や木炭という木質燃料は一挙に衰退した。当時、我が国の生産力が戦前最高時を越え、経済成長率年一〇%という驚異的な成長を続けていた。結果的に重化学工業やサービス産業が伸び、人口は都市へ集中し、貿易自由化と円高の影響もあって、国内の農林業は衰退した。とくに薪炭の生産量は激減し、今では街中で夕餉や風呂の煙を見ることは皆無となった。木炭はバーベキュー用燃料の位置づけであり、しかもインドネシア産が多い。薪となると街中では販売店さえ見つかり難い。
かつて郊外の山は広葉樹林で覆われていた。コナラ、アベマキ、クヌギ、ミズナラなどのナラ類や、アラカシ、ウラジロガシ、シラカシなどのカシ類を始めとして多くの種類の木々が林を作っていた。いわゆる雑木林である。しかしどの木も幹は太くない。一五年~二〇年で伐採され、薪炭として出荷されるからだ。明るい林内ではツツジなど低木やエビネやスミレなどが色とりどりの花をつける。広葉樹の若葉や花の蜜は虫たちにとっても格好の餌となる。同時にそれらは雛を育てている鳥や捕食性昆虫にとっての餌ともなる。さらに雑木林はシカやクマなど獣も生活していた。人間も薪炭材だけでなく、山菜やキノコなど食材も薬草も建築材や生活用具材も山から調達していた。田を潤す豊かな水も広葉樹林から流れ出ていた。
炭や薪が家庭燃料の役目を終えた後は、広葉樹は製紙材として皆伐され、あとには四季の変化のないスギやヒノキが植林された。断片的に残った雑木林は立ち入る人もなく鬱蒼とした森に遷移しつつあるが、暗い森は単一環境であり生き物も限られている。
薪炭が姿を消したとき、同時に「生物種の多様性」だけでなく「風景の多様性」「民俗の多様性」までもが喪失した。金次郎が背負っていたものは、里山という「日本文化の『多様性』」でもあった。hmatsui

大西町の小学校


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